コラム



- モーツァルトのかつら -

歴代の有名作曲家たちの肖像画が小、中学校の音楽室 の後ろの壁に並んで貼ってある。モーツァルトから左 側、すなわち時代をさかのぼると、J.Sバッハ、ハ イドン、ヘンデルらが並び、モーツァルトから右側 へはベートーヴェン、シューベルト、シューマン、シ ョパン、ブラームス・・と続く。隣り合うモーツァル トとベートーヴェンの最も目に付きやすい違いは両者 の髪型である。モーツァルト以前はかつらをかぶり、 ベートーヴェン以後は髪を振り乱したような、あるい は短髪をダンディーに撫で付けてあったりと、子供の 目から見ても違和感のない髪型である。このかつらの 有無の違いとはすなわち、芸術家であるかないかの違 いである。

1789年、バスチーユ監獄への攻撃で始まったフ ランス革命はブルボン王朝を終焉させただけでなく 、ブルジョワジーを生んだだけでなく、芸術家をも 生み出したのである。それまで貴族のお抱えであっ た音楽家は、言葉の上では音楽家ではあったが彼ら は貴族に召抱えられた使用人の一人でしかなかった 。料理人、仕立て人、音楽家。エステルハージ侯爵 家に仕えていたハイドンも、ジョージ1世のテーム ズ川の川遊びの為の曲を作ったヘンデルも、ブラン デンブルク辺境伯の元へ求職活動に行ったバッハで さえも同様であった。自らが仕える主人の気に入る ように、主人の命じた用途に沿うように音楽を仕立 て上げていくことが己の仕事であり、そこには何の 疑問もなかった。日々の仕事の中でいかによい仕事 をするか、ときには今までとは違った手法を考え出 してみたり、画期的な方法を見つけ出してみたりと 試行錯誤を重ねながら、成すべき仕事を成す。その 仕事である音楽の見返りに収入を得たり、社会的地 位を得たりしたという意識以上のものはなかったで あろう。自らの仕事の成果を評価するのは主であり 、主がいいといえば良し、悪いといえばダメであり 、それ以外の価値基準はあり得なかった。音楽係の 召使。それが覆され,音楽家の才能に対する敬意が それを与えた神に対するものと同等となるまでには もう少しあと、ベートーヴェンの横紙破りなまでの 自己主張とそれを受け入れた18世紀末から19世 紀の幕開けまで待たねばならない。ルイ16世と王 妃アントワネットが断頭台で処刑され、自由、平等 、平等、博愛の精神が高らかに謳われ、封建社会が 音をたてて崩れ去り、個人の尊厳という概念の誕生 といったさまざまなプロセスを経た後のことである 。革命後かつらを被る必要がなくなったこととはす なわち、仕事場である宮廷の流儀に合わせる必要が なくなったことを意味する。そしてそれは、音楽家 が主である貴族から仰せつかった仕事をこなすお抱 え召使でなく、一人の才能ある自由な芸術家として 自らの望む芸術を自由に創ることができるようにな ったことを意味するのである。

かつらをかぶったモーツァルトも当然雇い主の貴 族、ザルツブルク大司教コロレドから追放される まではお抱え召使であった。ところが、召使が召 使らしからぬ言動をする。分不相応の要求をする。 言いつけどおりの仕事をしない。これはダメだ、 と大司教が思うのは雇い主としては当然の感覚で あろう。彼が自分の作品の価値をぐだぐだと並べ 立てたり、演奏旅行のための休暇を要求したりし たときはなおさらである。それを「大司教は才能 を見抜く目を持ち合わせていない愚鈍なやつだ」 と後世の私たちが言うのは簡単だ。しかし、それ は筋違いというものである。モーツァルトの音楽 や演奏が秀でたものであったことを大司教が充分 理解していたことは、モーツァルトの問題の多い 行動にもかかわらず召抱えていたことでも明らか である。しかし、いかに優れた人材であるとわか っていても、一年の大半を演奏旅行で職場を留守 にして仕事をしない使用人は使用人としては失格 である。モーツァルトの悲劇は、時代の枠に収ま りきらないほどの大きすぎる才能とその才能に対 する自覚が社会通念と全く一致していないところ にある。才能ある者は必ず自らの才能への自覚が ある。それは当然誇りを伴うし、責任も感じる。 そして誇りと責任の大きさはしばしば、才能の大 きさに比例するようである。かれはザルツブルク 領主に反抗したのではなく、フランス革命以前の 封建的な貴族社会に対して反抗したのである。そ れは後に啓蒙主義的な貴族に多くの後ろ盾を持つ ようになったこととも関係がある。ヨーゼフ2世 をはじめとする啓蒙主義貴族たちはこれからの新 しい世の中において才能は身分よりも尊重される べきものだとの認識を持ち、かつ、それを保護育 成することを自らの使命だと考えていた。しかし 、こうした先端的な考えの貴族・王族はまだまだ 少数に過ぎず、傍から見れば変わり者として扱わ れていただろう。革命を準備する空気がヨーロッ パを覆うようになってからは危険思想の持ち主と さえ思われていたかもしれない。そんな18世紀 半ば当時、モーツァルトは自らの才能に対する強 烈な自意識と誇り、自信を認識しこれを表明する 。これは、当時の職人が持つプロ意識とは全く異 なる、芸術家としての自我の目覚めといってもい いものである。そしてまだ、芸術家というものが 地球のどこにも存在していなかったという意味に おいてモーツァルトのこの自意識は時代より完全 に先んじていたといっていい。
  「僕は作曲家です。楽長になるために生まれまし た。善良なる神からたっぷりと与えられた作曲家 としての僕の才能を、僕は埋没させたくはないし、 埋没させることもできません。自惚れではなくこ う言うことができます。というのは、前よりも今 のほうがずっと強くそう感じているからです。」 (1777年 マンハイムから 父への手紙)
ヴォルフガング・A・モーツァルト 21歳。 彼のかつらはもはや、その才能の上に被せるに はあまりにも窮屈、且つ、古すぎたのである。 フランス革命まであと12年の月日を待たねば ならなかった。

岸本礼子   

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