コラム


- 翻訳詩と解説について -

斉藤磯雄 著作集  第U巻 より 「サアディの薔薇 」
マルスリイヌ・デボルド・ヴァルモオル(1786−1859)著  斉藤磯雄訳・解説  東京創元社 刊


そもそも私が「斉藤磯雄」の名前を目にしたのは、澁澤龍彦訳・ジャン=コクトー著
「大股びらき」の解説であった。
解説を書いたのは、訳者である澁澤龍彦の友人にして仏文学者の出口裕弘氏。
以降、その解説の一部を引用する。


   “ たとえば、斉藤磯雄訳でリラダンを読むと、ぜひとも原文を読みたいとは
   思わなくなるだろう。「サンチマンタリスム」の最終行、「さりながら、その時、
   喪の扇は、女の胸の上で、さながら墓石に憩ふ黒胡蝶の翅のやうに、をののき
   ふるへてゐる」−このとどめの、あえて美文といってもいい文章に惚れ込んだら
   最後、もう日本語だけで十分、横文字でせっかくの感興をそぎたくないとまで、
   少なくとも私は思ってしまう。斉藤磯雄訳の『残酷物語』を読んで以来、
   私はヴィリエ・ド・リラダンのフランス語になじみそこねた。 ”
   ( 「大股びらき」 コクトー著 澁澤龍彦訳 福武文庫  )


一体全体、仏文学者が原文の仏語に「なじみそこね」てしまうほどの日本語訳
とは、どんなものなのだろう。引用されている、「残酷物語」のこの短い一文
の中に、得体の知れない魅力に満ちた「何か」が、そう、旧仮名遣いを差し引いてもなお、
「何か」があるような気配だけは感じた。が、それ以後しばらくの間、「斉藤磯雄」の名前を
目にすることはなかった。気づくと数年が経っていて、私はその名を忘れていた。

そして、ある日、私は幸運にも見つけることができた。
「斉藤磯雄訳 ヴィリエ・ド・リラダン全集」全5巻と「斉藤磯雄著作集」全四巻。

私は出口裕弘氏と同じ体験をすることになった。
「あえて美文といってもいい文章に惚れ込ん」でしまったのである。

以下は、同著作集 第U巻 掲載の、ある女流詩人の詩の翻訳と解説である。
(斉藤磯雄著作集 第U巻  東京創元社 −より引用。本文は旧漢字・旧仮名遣い)


   “ (中略)−先づわれわれは何の先入見も抱かず、虚心に、一篇の詩を誦してみよう。

         サアディの薔薇

       この朝きみに薔薇を捧げんと思ひたちしを、
       摘みし花むすべる帯にいとあまた挿み入るれば
       張りつめし結び目これを抑ふるにすべなかりけり。

       結び目は破れほどけぬ。薔薇の花、風のまにまに
       飛び散らひ、海原めざしことごとく去つて還らず。
       忽ちにうしほに浮かびただよひて、行く手は知らね、

       波、ために紅に染み、燃ゆるかと怪しまれけり。
       今宵なほ、わが衣、あげて移り香を籠めてぞくゆる・・・
       吸い給へ、いざわが身より、芳しき花の想ひ出。

   (中略) 題名のサアディ Saadi  は、ペルシヤ第十三世紀の名にし負ふ詩人。
   その著『薔薇の苑生』の序文にはこの詩の主題となつた次のやうな逸話が書いてある。

       賢者ありて忘我法悦の境に浸りぬ。我に返りし時、友これに問ふ、
       「汝の在りしかの苑生より、何をかわれらに持ち帰りしや。」応えて曰く、
       「われ、かの薔薇の木に至らば衣を掲げて花を満し、以ってこれを友らに
       贈らばやと夢みたり。さはれたどりつきし時、薔薇の香のわれを酔はしむること
       甚しければ、衣の裾、つとわが手より滑り落ちぬ。」

   ヴァルモオルは恋する女の芳しい吐息を吹きこめて、この東邦古代詩人の主題を、
   あざやかに変奏した。

       摘みし花むすべる帯にいとあまた挿み入るれば
       張りつめし結び目これを抑ふるにすべなかりけり。

   薔薇の花を失つた理由は、もはや不覚の放心ではない。溢れる恋ごころ、
   常に限度を忘れる情熱である 恋人の、より大いなる歓心を求めてやまぬこの情熱は、
   朝風そよぐ苑生をさまよひめぐる女の、息あへぐ胸のほとり、危い帯の中に、果てしなく
   増してゆく馥郁たる花の数に象徴される。何といふ美しい過度であらう。 ”


「果てしなく増してゆく馥郁たる花の数に象徴される」 恋心は、張りつめた「危い帯の中」に
やっとのことで抑えられている。今にも溢れ出そうな想い。
恋人への想いはむせ返らんばかりの香りを放って、どんどん「限度を忘れ」て大きくなっていく。

   「何といふ美しい過度であらう。」
斉藤は、作者ヴァルモオル夫人についていう。
「女のあらゆる自然的な美の詩的表現であ」り、「実在するためにはあまりにも夢幻的であり、
実在せぬにしてはあまりにも願望を唆る女性」 と。
その斉藤の、賛嘆と称賛と尊敬の念の凝縮された一言であろうか。


   “ しかしながら、あらゆる過度は、つひに破綻を免れ得ない。

       結び目は破れほどけぬ。

   この éclaté といふ響高い語の見事な効果をぜひ原語で味はつて頂きたい ”


さらに、女流詩人、ジェラアル・ドウヴィル夫人の解説まで引用する。


   “ 「この思ひ切つた言葉はなんと詩的でしかも力強いことでせう。詩節を劈くこの
   éclaté といふ語から、薔薇の花がみんな私たちの方へと流れて来ます。」 ”


éclaté ー 「危い帯の」「張りつめし結び目」の中にかろうじて抑えられていた
想いは、ついに、爆発音とともに堰を切って溢れ出てしまった。
その想いは「私たちの方へと流れて来」るという。
斉藤は 、この一文の原文の中にある “ éclaté ” という語について
この語の持つアクセントとその効果について特に注目している。
( éclaté は「爆発などによる破片・爆発音・大きなはじける音」の意)
そして、「私は残念ながらこの韻を日本語に移し得なかつた」と語る。


   “ 薔薇の苑生は海のほとりにあつた。風はふきつのつていゐる。一瞬にして芳しい
   贈物は海原へ飛び去つた。
   (中略)
   この時、恐らく、心はうつろである。彼女は自ら問はない。しかし、(中略)彼女もまた、
   驚くべき光景を目撃したのである。

       波、ために紅に染み、燃ゆるかと怪しまれけり。

   家路についてそのひねもすを、彼女はどのやうな夢想に過ごしたであらうか。
   彼女の感じたものは果して悲しみであらうか。
   ・・・・ともあれ、そのゆふべ、彼女は恋人を訪れた。衣はなほ、消え去つた
   薔薇の移り香に馥郁としてゐた。
   そして、恋人は、かつて幸福な男が捧げられたいかなる贈物よりも甘美な贈物を
   受け取つたのである。

       吸ひ給へ、いざわが身より、芳しき花の想ひ出。 ”


斉藤の解説は、解説を超越した“芸術的解説”ともいわれる。
詩の解釈は、その解釈する人がいる数だけ存在する、といわれるが、この斉藤の解説を
読んでしまうと、私などはもう、それだけで、あえて他と読み比べようなどとは到底思えなくなる。
私には、恥ずかしながらフランス語で書かれた原文を読みこなすような能力はない。
ヴェルレーヌに入れあげていたある一時期、是が非でも原文が読みたくて独学を試みたこと
があった。しかし今、この類い稀な美文調の翻訳詩を目の前にして、私も出口裕弘氏と同じく、
もはやマルスリイヌ・デボルト・ヴァルモオルのこの詩を改めて原文で読みたいとは思わない。
そしてさらに、この翻訳詩に、この“芸術的解説”がなければ、私はこの詩に対してこれほどの
美的感動を受けることもなかったと断言できる。
不勉強の開き直りといわれても仕方がないが、それでも私は、「斉藤磯雄の翻訳詩」が
読めること、また、斉藤が翻訳し、解説を書いた言語を母語としたことに、どんなに
感謝してもし足りない思いでいっぱいである。

岸本礼子   

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